ずいぶん久しぶりになってしまいました、Kたろうです。
さて、私はこれから何回かにわけて「『物語』に気をつけて」という話をしたいと思います。それによって、私たちの魂や、その進化の旅はどういうものであるかについてお話ししてゆきたいのです。
前もってその大筋を示しておくと、物語というのは物事に対するエゴの理解の仕方、あるいは説明の仕方であるということです。私たちは日頃、「現実」と「物語(=フィクション)」とを対置して考えますが、実際にはエゴの目で見た現実もまた物語(=フィクション)であると言えます。
そして、エゴの世界観は善悪、苦楽、高低などの二項対立で成り立っていますが、小説でも、漫画でも、映画でも、うまくできた物語には、この二項対立を使って読んだり見たりする人の感情をかきたてる工夫がほどこされています。
言い換えれば、私たちが強い喜びや悲しみ、怒りなどの感情をおぼえているとき、エゴの物語が作動しているということになります。やがて魂が進化してゆき、善悪などの二項を超える立場(あるいは二項を包み込む大きな立場)にいたったとき、私たちは物語を卒業し、激しい感情をおぼえなくなることでしょう。
物語とは何か?
あらためて、物語とは何でしょうか?
小説とか、映画とか、漫画、演劇、テレビドラマなどで展開するのが物語であることは、誰もが納得すると思います。
たとえば、小説や映画、漫画などの中で殺人事件が起きても、それは物語の中のことで、フィクション(虚構=嘘)に過ぎないと私たちは考えます。でも、新聞や、テレビ、ネット、ラジオなどのニュースで、「今日の何時ごろ、どこそこで殺人事件が起きました」と報じられれば、それは物語(=フィクション)ではなく、現実と考えます。それはそうでしょう。生身の人間が、実際に刃物で刺されたり、首を絞められたりして命をなくしたことを伝えているのですから。
つまり私たちは、物語で展開される嘘の世界と、現実の世界とをわけて考えているわけです。
しかし、本当にそうでしょうか?
物語のパターンの数は有限である
小説の書き方、シナリオの書き方などについての指南書がたくさん出版されていますね。今後も、どんどん新しいものが出版されるでしょうが、そうした本を読んだことがあるでしょうか?
その手の本でいつも語られるのは、物語のパターンの数には限りがあるということです。とりわけ、人々を熱狂させる物語のヒット作のパターンはごくわずかだということです。
このような主張の背景には、昔話とか、神話とか、古典的文学作品などにおける物語の構造や表現形式などを分析するナラトロジー(物語論)の研究成果があります。
いずれにせよ、人間はずっと、同じような物語を繰り返し、繰り返し、喜んで消費してきたのです。ギリシャ神話や聖書、古事記などに、洋の東西はまったく違うのに同じようなモチーフの話が登場します。現代の映画や小説でも、同じような話が何度も何度も作られています。
もちろん、表面上はまったく違う物語ですが、登場人物や出来事などの物語内での機能や役割は変わらないということです。たとえば、「ドラマは対立で成り立っている」というのは、物語作成法において必ず言われることですね。
「宇宙飛行士の人間」対「エイリアン」、「村人のために立ちあがった侍」対「野武士」、「悪の帝国」と「ジェダイの騎士」でも何でもいいのです。あるいは、クラスのかっこいい男子生徒のことが好きで、いい雰囲気になりそうな女子の前に、恋敵の女子があらわれたとか。違う世界における、違う登場人物たちの話ではあっても、「対立があって話が進む」ということでは同じなわけです。
また、話の展開の仕方についても、三幕構成とか、起承転結とか、序破急とか、パターンがあることが観察されてきました。つまり、話を分かりやすく、しかも劇的効果をもって客に伝えるにふさわしい、共通の組立があるようなのです。これについても、世界中の神話や古典劇などにおいてパターンを見いだすことができます。
なぜ、人類が昔から、世界中で同じパターンの構成要素や、構造を持つ話を繰り返し語り伝えてきたのかについては、いろいろな説があります。集合的無意識のせいだ(人々は無意識でつながっているからだ)とか、時代や人種、地域が違っても、人間の欲望の形式は同じだからだとか。中には、もともと同じ部族であった人々が、世界中に散らばって旅をし、それぞれの地域に定着したから、同じ神話の類が世界中にあるのだ、と主張する人もいます。この問題については、また後に扱いたいと思います。
いずれにせよ以上は、「フィクションとしての物語」についての話です。しかし次回以降には、これが実は、我々が現実と考えるものにも広がっているという話をします。すなわち「リアリティとしての物語」です。
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