そろそろ画像なども入れ、ブログの体裁をもう少し格好よく整えたいと考えながら、なかなか手が回らないでいるKたろうです。
さて今回は、人を救済することについて考えてみます。
菩薩道の問題
いわゆるスピリチュアルな世界においては、「人のことは放っておきなさい」といったことがよく言われますね。自分の霊的な成長や進化だけを考えればよいのであって、他の人のことは気にする必要はないというのです。いっぽう、「それって、どうなの?」と反発をおぼえる向きもあるようです。
人のことなんてどうでもいいというのは、冷たくて、愛がない感じがしますね。自分だけが幸せで、他の人が不幸であるとき、本当に幸せと言えるのでしょうか?
そういう思いがあるからこそ、いろいろな宗教宗派においては、布教活動が重視されてきたわけです。自分は、かつては大変苦しんでいて、不幸であったけれども、この教えによって救われ、幸せになれた。だから、この良い教えは、他の人にも伝えなければならない。それが、愛というものではないか、というわけです。
キリスト教諸派は世界中に伝道師を派遣してきましたし、仏教においても、悟りを開いて覚者(仏、ブッダ)になることだけでなく、人を悟りへと導く「菩薩道」が重視されてきました。
そうであれば、いま風のスピリチュアル業界(?)で唱えられている「アセンション」「次元上昇」「目覚め」などなどについても、同じことが言えるのではないでしょうか? 自分だけが目覚めたり、上昇したりすることを目指すのではなく、眠っている他の人をゆり起こしたり、沈んでいる人を引き上げたりすべきではないでしょうか?
こういう問いを投げ掛けられたとき、私がよく例にあげるのは、推理小説にまつわる話です。
推理小説のネタばらし
あなたが面白い推理小説を読んでいるとします。「いったい、犯人は誰なんだろう?」「鍵のかかった密室で死体が見つかったが、どういうトリックなのだろう?」などと、どきどき、わくわくしながら物語に埋没しています。そのときに誰かがやって来て、「ああ、その犯人は○○だよ」「トリックは実は単純なものでね──」などと教えたとします。頭に来ませんか? 実際、海外では、推理小説のネタばらしがきかっけで殺人事件が起こったという話も聞いたことがあります(実話かどうかはわかりませんが……)。
あなたが「どうして読んでいる最中なのに、そんなことを言うんだ」と怒ったとして、相手が「なぜ、怒るんだよ。せっかく親切に教えてやったのに」と応じてきたら、ますます頭に来ますよね。
でも、あなたが目覚めた人であるか、あるいは目覚めつつある人であるとして、いわゆる眠ったままの生き方をしており、ずいぶんと苦労している様子の人に出会ったとき、「この宇宙の真相はこうなっているんだよ。それに気づきさえすればいいんだ。そうすれば、あなたも目覚めた生き方ができる」とわざわざ教えてあげることは、推理小説のネタばらしをすることと同じであるかもしれないのです。
地球はアバターを使ったゲーム場
私たちがこの地球に肉体を持って生まれてくる前の、魂の世界では、何の制限もありませんでした。苦労も、時間の制限もなく、欲しいと思ったものがすぐに与えられ、行きたいと思ったところがすぐに目の前にあらわれます。やりたいと思ったことは、何でもすぐに行えます。何の謎も、難しいトリックもありませんでした。すべてがシンプルだったのです。
それは素晴らしいことのようでいて、私たちは退屈してしまいました。「いったい、不自由とはどういうことだろう?」「時間の制約があるとはどういうことだろう? 何かを実現するのに時間がかかるって、どういう状態? 命に限りがあるってどういうこと?」「貧しいとはどういうことだろう?」「困難に直面するって、どんな感じ?」といった思いを、魂たちは抱いたのです。
そこで魂たちは、不自由で、弱く、貧しいことが体験できるゲーム場を共同で作り出しました。わからないことだらけで、困難や危険に満ちた場所を作ったのです。それが地球という場所です。そこに肉体を持ったキャラクターになって入り込めば、魂は「制限ゲーム」に参加できます。まさに仮想現実の「アバター」そのものですね。
アバターの肉体を持つことによって、私たちは様々なことを「体験」できるようになりました。私たちが地球に肉体を持って生まれてきた理由は、まさにこの「体験」をするたことにあったのです。ポジティブな体験も、ネガティブな体験もできます。不自由を感じたり、困難に直面して辛い思いをすることも、そこから開放されて嬉しくて堪らくなることも体験できます。そうしたことは、魂のレベルでは決してできなかったのです。
はじめのうちは、私たちは「これはしょせんゲームだ」ということに気づいていました。肉体を持った「男(女)」、「背が高い(低い)」「元気(病弱)」「目が何色」「貧しい(豊か)」などというのはアバターの特徴であって、魂の自分とはまったく違うということも十分にわかっていました。ところが、ゲームに夢中になっているうちに、これがゲームだということすら忘れてしまったのです。そして、ゲーム内のキャラクターが自分そのものだと思って、ゲーム内の設定である危機的状況や、敵のキャラクターに対して、本気で怖がったり、泣いたり、怒ったり、戦ったり、逃げたりするようになったのです。これが、「目覚める」の反対の「眠っている」状態と言っていいでしょう。
でもそろそろ、この地球ゲームは終わりにして、別のことに関心を向けようとしているのが目覚めている人です。推理小説の用語を用いれば、この世の「トリック」がわかってしまった人です。そして、この世の様々な事件の「真犯人」がわかっている人です。
(『真犯人』はあなたです。すべてはあなた自身が起こしています)
あなたはトリックや犯人を知っていて、もうこの古い地球を舞台にしたミステリー小説には飽きてしまっているのかもしれません。しかし、これからこのミステリー小説を読みたい人、あるいは読んでいる最中の人もいます。その機会を奪うのは野暮というものです。
さきほども言いましたが、私たちは体験をするために生まれてきました。そして、どのような体験をしたいのかは、魂によってそれぞれ違うのです。
この話、さらに次回につづけます。
お読みいただき、ありがとうございました。