Kたろうです。
今回は、あまり言葉にとらわれないほうがよいですよ、という話をします。
これからの地球は二極化するという人がいますね。
何年の何月何日(日付は人によっていろいろと変わりますが)までに目覚めることを選ぶ人と眠りつづけることを選ぶ人とのコースがまったく分離する、とか。
それに対して、非常に批判する人たちもいます。
たとえば、「もともとこの世界は陰陽、左右、上下、男女、明暗など、二項対立で成り立っている。つまり、二極化した世界ではないか。たいそうなことを言っているようで、当たり前の話に過ぎない」とか。
いや、「私たちは『一なる意識』『すべてを包む愛』に向かっているのであって、二極化などと言っているだけでマガイモノだ」とか。
「ポジティブな方向とネガティブな方向に道がわかれていくと言って恐怖をあおっているのは、いかがなものか」とか。
でも、「○極化」というときの「○」にどのような数字が入るかは、どの視点に立っているかによって変わるに過ぎないのです。
多極化? 一極化?
世界は一つじゃない、という話を聞いたことがあるでしょう。その人が発している周波数によって引き寄せられる現実が変わるのであれば、現実は人の数だけあることになります。いわゆる「パラレル・ワールド」とか「パラレル・リアリティ」とか呼ばれる考え方です。
その意味では、この世界はもともと「多極化」しているわけです。そして、この現実に気づいた人たちが、自分の体験に責任を持ち、みずから意識的に現実創造をするようになれば、多極化はどんどん加速していくことになる、とも言えるわけです。
「多極化」ではあるけれども、そこに大雑把な傾向を見ることもできるでしょう。
傾向としてポジティブな現実を作る人たちと、ネガティブな現実を作る人たちがいるというのであれば、それは「二極化」と言うこともできるわけです。
(ポジティブ、ネガティブというのは誤解を招く言葉ですが、いま話をわかりやすくするためにあえて使います)
みんなが自分らしさを発揮していったら、この世は混乱してしまうと思う人もいるかもしれません。他人に迷惑をかけても全然平気で、自分の信念や主義主張、趣味などを追求していく人が世の中にあふれるようになるからです。
でも、進化した世界ではそのような心配はありません。仏教ではこの世界の「実相」──あるいは「悟りの境地」と言ってもいいかもしれませんが──は、「一即一切、一切即一」などと言われたりします。アセンションでも、目覚めでも、悟りでも何でもいいですが、そうした体験を経た人々が住む世界では、それぞれが個性を発揮し、自分の真実を追究しながら、調和が取れている状態になります。いかに個性を発揮しようとも、みんなが一つになり、和を築きあげているのですから、「一極化」と言っても差し支えないわけです。
一極化であり、多極化であるということは、あいかわらず陰と陽、ネガティブとポジティブ、男と女、上と下、明と暗、苦と楽などはなくなるわけではありません。その意味では、昔も今も、これからも「二極化の世界でありつづける」という言い方もできます。
それでは結局、悟ったり、次元上昇したりしたりしても同じことではないかと思うかもしれませんが、そうではありません。新しい「ワク星・地球」では、これまでの二項は否定されずに存在しているけれども、「一即一切」なのですから、お互いに妨げ合わないのです。あなたがポジティブな物事を選べば、ネガティブな人や経験に妨げられて、自分の望む方向に進めなくなるということはないわけです。
物を言えば障りになる
だいたい「言葉」というのは、真理(大いなる宇宙、神、一切、悟りなどなど)を正確に表現することはできません。つまり、何かを言葉にあらわそうとすれば必ず「障(さわ)り」となってしまいます。だからそもそも、こういうスピリチュアルな世界の話をするときに、使われている単語をいちいちとりあげて文句を言い、カッカしていてもあまり意味がないとも言えるわけです。
しかも、いろいろな「○極化」は、最初に言ったように、話者がどういう立場にたって物事を見ているかによって変わってくるわけで、それぞれの言っている内容をよくよく吟味してみると、「なんだ、同じことを言っているんだな」とわかったりします。
SNSが発達した時代には、長い文章をじっくりと読むより、短文をさっと読んで情報を得る人が多くなっています。だから誰かの発言を一、二行読んだだけで、その人の考えていることのすべてをわかっているように思ってしまいがちです。しかも、自分にとって大きな関心がある問題になると、つい感情的に反応してしまったりします。
けれども、せっかく「新しい地球」の担い手となるはずの人々──○極化などという話題に引きつけらる人々──が、そのような落とし穴にはまってしまうのはもったいないと思うのです。それで、こんなお節介な文章を書いてしまいました。
今回もおつき合いただき、ありがとうございました。